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演題
「 IN MY LIFE 」
講師

中村 雅俊 氏
宮城県牡鹿郡女川町出身
昭和26年2月1日生まれ
慶応大学経済学部卒業
主な出演作品→「ゆうひが丘の総理大臣」外多数
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会場
石巻専修大学体育館

 こんにちは、中村です。
 講師の先生と呼ばれましたけど、非常に気恥ずかしいです。
 普段は役者であって歌手であって、普段の生活は一年三百六十五日を通じて役者で活動する時期が多くて、大体八か月くらいは役者をやっております。あとの四か月は歌手として全国をコンサートツアーに行っております。八か月はほとんとセリフを覚えて撮影現場へ行ってという生活です。
 実は撮影現場、撮影の状況というのは、何人かの方は見ていると思いますけれど、非常に過酷でして、朝五時過ぎには起きて、八時くらいには普通の顔をしてカメラの前で演技をしているという日々を毎日やっております。特にこの前までやってました「夜逃げ屋本舗」というドラマは、近所を通りかかった人が撮影現場を見て、「あっ、例の引っ越しのやつですか」とよく言われるんですが、「いや、夜逃げ屋です」と、丁寧に答えているんです。「夜逃げ屋」は、夜逃げと言うくらいですから夜の撮影が多く非常に大変で、寝不足の日々が続いて、いい歳なので映ると目が下がって、これは元々ですが、そういう状態でやっております。
 前置きが長くなりましたけど、そんな状態なので講師とか先生と呼ばれると非常に歯痒いものがあります。
 私は昭和二十六年の二月一日生まれでして、同級生はみなトラ年で五十三歳になっている連中とか、まだ五十二歳という人たちもいるのですが、そういう歴史の中で今、役者として歌手として生きていますけど、五十二年間の自分の人生、まだまだ先がいっぱいあってやることが多いんですが、自分の話をして、みなさんがちょっとでも感じるものがあったら私自身としてはうれしいと思います。
 この場であることないことをじゃないんですけど、あることだけをしゃべりたいと思うので、よろしくお願いします。
 私はここへ来るといわゆる地元というやつで、本当にちょっと恥ずかしいんです。
 高校が石巻高校という、ここからちょっと方向はわかりませんが、日和山というのがあり、そこの上に石巻高校というのがそびえ立ってまして、四十一回生ということでずいぶん昔です。生まれたのはこの石巻から電車で三十分くらい行った所でしょうか。石巻線というのがあるのですが、終着駅の女川という小さな港町で生まれて育ちました。本当にどこにでもあるような小さな港町でして、そこでおいしい魚を食べて育ちました。海がすぐ目の前にあって、後ろを見るとすぐ山という本当に小さな所でして、そこで中学と、小学校もそうですけど、高校は何とか石巻高校へ入りまして、十八年間過ごすことができました。
 高校時代、中学時代とバスケットをやってまして、実は中学を卒業した時から今まで一センチしか伸びていないのです。中学の時から百八十センチちょっとくらいありまして、そのせいでしょうか、高校一年生の時からレギュラーになりました。同級生のバスケット部員からねたまれたという感じもあるのですが、そういう生活をやりました。
 石巻高校というのは受験校だったので、忘れもしない一九六九年、丁度安田講堂でいろんな事があって、その時が大学受験という時期でした。
 向こうでいろんな事が起きていてもここにいる学生にとっては本当に他人事というか、同じ日本の中で起きている出来事なのに、テレビで見るでき事みたいな感じで見ていたのですが、それで大学受験で東京に行って初めてそういう意味でカルチャーショックを受けました。のんびりしている田舎での生活、大学受験で東京へ行った時の落差に非常に驚きました。どちらが良いとかどちらが悪いという事は言えないのですが、非常に自分の心の中に変化というものがありまして、自分は何をしたらいいのだろうかということもありました。丁度、大学が横浜にあり、そこでクラス討論会をいつもやっており、つまりデモです。あの頃、七十年安保というのがあり、何も知らない私はみんなが真剣になってクラス討論会をやって、自分達はどうしたらいいんだ、どう生きたらいいんだ、日本はこの先どうなるんだという話をみんなが真剣に話している姿を見て、自分は取り残されたような、自分は何をして何を考えて生きて来たんだろうという気持ちになりました。いろんな事を勉強して、六・二三という、明治公園から日比谷公園まで自分たちの意志を表明する事で自分がどこの何かというのじゃなくて、自分は何か動かなければいけないという気持ちになりまして、今、振り返るとなんであんな行動をしたのかという思うくらい大胆な行動に出たという記憶があります。
 うちの大学は坊ちゃん大学と言われていて、慶応大学だったんですが、みんなストをやってもザルストップと言われて、水がザルから抜けるようにしてどんどん人が構内に入っちゃって授業を行っているような状態の感じでした。
 それで皆さん笑うと思いますけど、高校時代によく五木寛之さんの小説を読んでまして、「青年は荒野をめざす」とか「さらばモスクワ愚連隊」とか、あの手のつまり当時でいうソ連が舞台になっている小説を読んで、漠然と自分は外交官になろうと、それもソ連の外交官になると決めました。何で決めたのだろうと未だに不思議なんですけど。大学へ入った時もESSという英会話のクラブへ入って英語だけは勉強しようとやったんですけど、ESSの中にはスピーチセクションとリベートというのとドラマセクションとディスカッションセクションとありまして、たまたまドラマセクション、英語劇をやるというセクションに入りまして、英語でお芝居をするというのを大学で三年間やっていたんです。そして初めて三年生の時にキャストになりまして、芝居をするということをとっても面白く感じました。そこから急に進路を変更しました。「文学座」という、今、考えると本当にすごいのですが、芝居をやろうと思ったとたんに、劇団に入ろうと思ったのです。
 劇団って何があるのだ、いい所から三つ挙げてみろと言ったら、「文学座」、「俳優座」と「民芸」と言う、当時、三大劇団がありまして、「民芸」は三年間に一回しか試験はやってないし、「俳優座」は桐朋学園からしか役者はとらない。「文学座」は毎年やっている。じゃ「文学座」しかないだろうと。「じゃところで、中村は文学座の芝居を知っているか」と言われると「全然知らない」。そんな感じで受けました。すごい倍率だったんです。三十人定員で千二百何十人かくらいいましてもうぶったまげまして、それまで芝居の「し」の字もやっていなくて四十倍ちょっとあったんで、大学へ入った時はまだ二十倍もいっていないような倍率だったんで非常に不安でしたが、とにかく受けてみようと思ったのです。
 そしたら一次試験に受かって、二次試験はどうかなと思ったんですが、ラッキーで受かることができました。そこからもう大学へは行かずです。大学四年の四月から「文学座」に入ることになり、いわゆる研究生として、毎日、とにかく皆勤しなくちゃいけないと思い、どっちがお前にとって大事かということで「文学座」の方へ、何も考えずに毎日通うことになりました。
 あの時期を振り返ると中村雅俊という人物は恵まれてまして、人生の中で一番最大のラッキーな時期でした。四月に「文学座」に入ったんですけど、十二月に、今度学園ものをやるのでプロデューサーの方が稽古場に来まして、五、六人が先生役ということで残され、その中に俺も入っていました。当時、そのプロデューサーは「太陽に吠えろ」という番組のプロデューサーもやっていまして、「太陽に吠えろ」は当時、ショーケンがやっていた役をオーディション形式でやるというのがありましてほんの十分か十五分くらいセリフを言うのです。それが終わってのほほんとしていたら二週間ぐらいしたある日、「文学座」の人に呼ばれて、「中村、お前その先生役に決まったから」と言われたのです。
 みなさん、こんなラッキーなことないでしょう。いきなり主役ですよ。もう本当にうれしくて。当時私はおふくろに役者になっていることを言っていませんでしたので、どうしようかと思いまして、それでおふくろの所へ行って、「かあちゃん、俺は役者になるから」と言ったら、「何言ってんの、あんた」とものすごい勢いで怒られました。その後「テレビに出ることになったよ」、と言ったら「あ、いいじゃない」ということになりまして、うちの母親の豹変ぶりにもびっくりしたのですが、そういうラッキーがありました。四月に「われら青春」という番組でスタートすることになりました。これまでにテレビに出たことが無かったんで、当時、そのプロデューサーは「太陽に吠えろ」もやっていたんで、経験を積むという形を取って、ちょっと場を踏ませていただきました。それから「われら青春」でデビューしたのです。
 私と同世代の人はみなさんそうだと思いますが、自分達の部屋にギターが置いてあってポロンポロンといろんな歌を歌ったりしていました。大学時代、その延長で下手な曲を作ったりなんかして、当時、自分の夢がありました。自分の作った曲が、今でならCDなんですが、レコードになったらいいなあという夢があって、考えれば考えるほど馬鹿らしい話でそんな事が叶うわけがなく、夢の又更に夢の、レコードを出すということはそれくらい遠い世界の見果てぬ夢という感じだったんです。そういう夢があったものですから、大学時代になんだかんだで百曲ぐらい作ってました。デビューして「われら青春」という番組はほとんど若い人向けでありお年寄りの方は見ていない、本当に高校生、中学生、小学生が見ているような番組だったのです。
 いきなりデビューして三か月くらいしてからですが、「中村、レコードを出さないか」と言われたんです。すごくびっくりして、「俺の大学時代のことを知っていたんですか」と言ったら、「いや、そうじゃない。中村は五代目の先生だけど、今までの初代の先生は夏木陽介さん、二代目は竜雷太さん、三代目は浜畑賢吉さん、四代目は「とびだせ青春」の村野武範さん。お前は五代目だけど、今までの歴代の先生はレコードを出していた。だからお前が出すのは慣例の出来事だ」ということでレコードを出すことになったのです。もう俺にとってはレコードを出すということは、本当は自分の作った曲がレコードになるというのが最高なんですが、そんな贅沢は言えないので、じゃあということでレコードを出すことになりました。大体夏木さんから始まる先生ものの音楽はいずみたくさんという人がずっと書いております。誰に書いてもらうじゃなくて、最初からいずみたくさんがメロディーを作り、そして詩は山川ケイスケさんという方が書いてあったのです。それは「飛び出せ青春」の ♪君は何をいま♪ のあれも山川ケイスケさんで、そこからの流れで何の迷いもなく山川ケイスケさんが詩を書いて、いずみたくさんが曲を作るという。それで出した曲が「ふれあい」で、「ふれあい」が売れるとか売れないとかいう以前にレコードを出すということがものすごい喜びでした。
 大学の同級生にカラオケができた時に、電話でカラオケを流しながら「俺、今度さあ、レコード出すんだよ」みたいな感じで、カラオケを流して受話器で ♪悲しみ♪ と歌って、「どう、どうなんだこの曲は」なんて。「いいんじゃないの」みたいな冷たい返事があったんですが、それくらいレコードを出すという喜びが一杯ありました。なおかつ二重の喜びで、売れまして、オリコンというヒットチャートの雑誌がありますが、一位になり、十週間ぐらい一位になるというすごい、本当にデビューの時からこんないいこと、これ以上のことはないというデビューを迎えました。そんなこんなで今年で三十年、役者として歌手としてずっとやって来ました。「われら青春」が終わって、割とすぐに「俺たちの勲章」という、亡くなった松田優作さんと二人で刑事ものをやったんですが、その時のゲストに出たのがうちの妻でした。松田さんも俺も同じ年で、二十四歳という若さで結構若さゆえのやんちゃな松田さんであり中村雅俊君であったので、結構ゲストには評判が悪かったのです。ゲストの人が来ると、今でこそゲストの人が「ゲストの某です。よろしくお願いします」と言うと、「どうも、よろしくお願いします」って言っていたんですが、二十四歳という若さのせいでしょうか、ゲストが来て「よろしくお願いします」って言われても、俺と松田さんは二人で「アイ」見たいな、本当に愛想が悪い、そんなレギュラーの二人でやっていたんです。
 それくらい評判が悪くて「お前らゲストなんだからちゃんと挨拶しなさいと」とプロデューサーから言われるくらい態度が悪い。それが証拠に松田優作さんはあの頃ずいぶん事件を起こしていまして、一緒にいてはらはらして心配することも多かったのです。松田さんは「文学座」の一期先輩で、当時同じプロデューサーでデビューして同じマネージャーだったのでずっと兄弟みたいな感じでした。松田さんは松田さんの生き方をしていて、俺は俺らしく役者としてやっていたので、外から見ると仕事の仕方はずいぶん違っていました。松田さんとは定期的に会って、兄弟みたいな感じだったので、飲んでいろなん話をしたりといい思い出が残っています。
 話は戻りますが、うちの妻がゲストで来た時も相変わらず「よろしくお願いします」と言った時に「アイ」という感じでやっていたんですが、いなくなった途端に「かわいいよね」みたいな感じで、松田さんと二人で喜びあって、それがまさか自分の奥さんになるとは本当に思っていなかったんです。どっちが惚れたかというと歴然として俺です。まあ向こうが俺をパッと見た途端にすぐに俺に惚れるとは、皆さんも思いもよらないでしょう。当然俺が好きになって「好きです」見たいな感じで。
 二十三歳でデビューして、二十四歳で出会って、二十六歳の誕生日には結婚式を挙げてました。本当に三十年間の芸歴と言いましたが、三十年の内、うちの妻との付き合いは二十八、九年になるという感じです。 芸能生活も結婚生活も同じような感じでして、ちょっともう少し遅くてもよかったなと思うこともありますが、男だったらそういうこともあるでしょうという感じです。当時、結婚をしようとした時に結構周りの人に反対されました。自分で言うのも何ですが、「われら青春」でデビューして、「俺たちの勲章」をやって、その後「俺たちの旅」というのを田中健ちゃんとか、秋野大作さんとかとやったんですが、それなりにジャニーズほどは行きませんが、結構人気者になりまして、当時結婚すると人気が落ちて仕事が無くなるみたいな言い方をされまして、実際にそうだったんです。
 周りの人が「お前、早すぎるんじゃないか」と言われたのですが、どうしても結婚したくて結婚しました。当時、ファンクラブも一万人強いたのですが、結婚した途端に千八百人に減ってしまいまして、「あ、そうか」、周りの人とかマネージャーが言ったことはこういうことなのかと思いました。その後何となく自分らしくずっと仕事をしていて、途中「心の色」とか、ああいう曲が売れたり、自分なりに自分で納得するような作品、ドラマ、映画をやって行く中で、今六千人ぐらいに増えました。五十歳を過ぎてまだファンクラブを持っているのもどうかなあと思うのですが。まだファンクラブはありますので、入りたいと思う人がいましたら、どうぞどうぞ。断りませんのでどうぞ入って下さい。
 二十代の頃は「ゆうひが丘の総理大臣」とか、いろんなドラマをやって、いわゆる学園ものを。私的には青春スターみたいな言い方をされて。三十代は割とその延長みたいな感じで、途中から大人向けのドラマをやったりいろんなドラマをやり、最近は「夜逃げ屋本舗」とか「歓迎!ダンジキ御一行様」とか、これも意図的な感じでやらさしてもらっています。
 今度の二月一日が来ると五十三歳になって世間的にはいいオヤジです。人生の流れで考えれば、マラソンで例えればもう折り返し点を過ぎて、後はレストというのか残りをどう生きようかと考える年齢ですが。大学の同級生は、経済学部だったので銀行マンとか商社マンが多いのですが、私はこういう職業のせいですか、まだまだやることがいっぱいあるというか、五十二歳というのはまだまだ若造でして、これからやらなければならない宿題がいっぱいあります。もう一つは、こういう年齢もあるのでしょうか、二十代の時はただがむしゃらで生きてきたのですが、ある程度四十代も過ぎ、五十代になって来ると、また新たに自分の中に、心の中に熱くなるものがあり、もう一度頑張ってみようという気持ちがふつふつと出てくるものがあります。今五十代に入って自分のやる気みたいな、エネルギーみたいな情熱みたいなものがどんどん出てくるのが自分としては非常にうれしい出来事だなあと思ってます。
 これから役者として歌手としていろんな事にチャレンジして行きたいと思っています。だいたい、それが私の五十二年間、ものすごい速い五十二年なのですが、今こういう五十二年間の自分の歴史の中でいろいろと思ったことが幾つかあるのです。一つ一つ上げて行きますと、「文学座」に入ったという出来事なのですが、「文学座」に入った時は私は一番下っぱで、一番頂点にいたのは杉村春子先生。当時「女の一生」とか「欲望という名の電車」とか、いろんな舞台をなされておりまして、年齢もかなりのご高齢だったのですが、精力的にやっておられました。この姿に非常に打たれて、いろいろ六十の手習いとか、何かを始めるのに年齢は関係ないとかよく言われますが、まさに杉村先生を見ているとそういう気持ちになりました。
 いろいろと杉村先生には迷惑をかけたやんちゃな時期がありまして、一緒にドラマか何かをやっている時に、ドラマの撮影の昼休みとか、夕御飯の休憩があるのですが、だいたい五分くらい前にはスタジオに入って準備をしなければならないのですが、私は本当に優等生じゃなかったので、助監督の人がに「お兄ちゃん、もうスタジオに入りましょう」と言われて、「だってまだ時間あるじゃん」とか言ってて、「もう杉村先生は入ってますから」、「春子オ、待たせておけよ、春子を」なんて言ったら、すぐそばにいまして、「中村君っ」、「あっ、すいません」とかいろいろありました。
 「おしん」とか「渡る世間は鬼ばかり」の橋田須賀子さんがおりまして、あの人はやたらと熱海の自分の別荘に人を呼ぶのが好きで、呼ばれまして五、六回ぐらい行ったことがあるのですが、初めて行った時は杉村先生もいたんですけれど、私は酔っぱらって、気が付いたら絨毯を結構焦がしてまして、その場で杉村先生に頭を殴られまして「謝りなさい」みたいなことを言われた、そんな事も楽しい思い出に残っています。 杉村先生に話を戻しますが、私は「女の一生」という舞台が大好きでして、あのストーリーがどうこうというのじゃなくて、セリフがあるんですよ、杉村先生の。それはどういう状況で言うかというと、いわゆる人生を生きてきて、楽しい時期というかうまく行っている時期は何の問題もないのですが、一つから回りしてくると、人生って本当にいろんな悪い事が出てくる。その時人間って非常にパニックになり、どうしていいかわからないという時があり、その時に杉村先生が言うセリフがあるんですよ。自分の人生がひょっとすると間違いだったんじゃないかと、あの時にAかBか選択に迷った時に、あの時にAじゃなくてBの方が良かったのじゃないかという事は人生の中で多々ありますよね。日常生活の中でも車が混んでいるだけでも違う道を行っただけでそっちも混んでいると、ああ前の道が良かったと思うのが人間でして人生でもそういう事があります。そうそう人生の中でうまく行かなかった時に、杉村先生のセリフに「誰が選んで歩き出した道でもない。自分で選んで歩き出した道ですもの、間違いと知ったら間違いじゃないようにしなくては」というセリフがあるのです。
 これは本当に聞き流せばそれだけのセリフなんですが、私にとっては本当にいい意味でのショックでした。そうだ、自分が選択した人生っていつも選んだ途端に間違いだなと思っちゃう。AかBかと選んだ時に、Aを選んでしまった時に、Bだったのかなというのがあるんです。でも人生って戻れないので、その時に杉村先生が、「自分の人生は誰が選んだのじゃない、自分で選んで歩きだした道ですもの。間違いと知ったら間違いでないようにしなくちゃ」。これなんですよ。ここが本当に大好きなんです。「間違いと知ったら間違いでないようにしなくちゃ」というのがとっても好きで、私もそうなんですが、あ、間違ったなという選択もあるんですけどいいんですよ、入り口で間違いと知っても出口で間違いでないようにすればいいんだという、単純にそれだけの話なんです。私はそうしています。
 いつもあっ間違いかなと思っても、人間って努力するじゃないですか、順応性とか人間が持っているいろなん特性があって、間違いでないように努力するというのは意外と人間ってできるような気がします。全て完璧に百パーセント間違いのものを出口で間違いのないようにするというのは百パーセントはできません。けれど、間違いでないようにする、オールモスト、それで結構行ちゃうのでないかと思うのです。
 杉村先生の言った「女の一生」のセリフで、私は自分の生き方を変えました。間違いと知ったら間違いでなくすればいいのだというが、自分自身の中で今でもそういう気持ちでいます。
 杉村先生はもうお亡くなりになりましたが、「女の一生」という舞台がまだまだ「文学座」のレパートリーであります。私は何十年も前に「文学座」をやめましたが、やめた人間が何をほざくのかと言われそうですが、でもいいやつはいいので「文学座」の「女の一生」、そしてあのセリフは私の座右の銘でもないのですが、非常に影響を受けたセリフです。
 私もずっと三十年役者としてやって来たんですが、さっき言いましたアイドル時代。何の反応もないですね……(笑)。良かった、笑われると。ここで笑わないということは認めているわけですね。ありがとうございます。
 そういうのを含めて理想の先生と言われたり、理想の夫とか言われたり、そういう時期も過ぎて三十年が過ぎたのですが、実際の中村は理想の何とかとはちょっとかけ離れているのですが、よく理想の夫ナンバーワンと言われるとうちの妻に「ばらしてやる」と言われるので、理想の何とかと言われるたびにちょっとびくびくしてしまうのです。ただ理想の夫とか理想の父親では一応いたいなと、特に中村家ではいたいなと思っています。別に理想の夫と言われても、これはイメージだけの話でして、私は決して理想の夫じゃありません。声を大にして言えます。さきほど言いましたが、ただ本当にイメージだけでして、百組夫婦がいたなら百組のルールがあるので、ここの夫婦でこうだから、こっちの夫婦でこうだということは全くありえないことで、百組夫婦がいましたら百組通りのルールを各自二人だけで作っていく作業が必要だと思います。
 また幸せの価値観も絶対そうだと思うんですよ。何か幸せなのか、何が不幸せなのか、それは他人から見て、「すごい家に住んでいる」とか、「あそこのお父さんは社長よ」みたいな感じ、だから幸せとは限らないことなので、別に幸せなんて夫婦で家族で感じとればいいことなので、だから幸せとか何とか、いい夫婦とは何とか、それは決して言えないことなんで、そういう意味で自分たち夫婦で家族で作ればいいことなんです。それは皆さんがわかっていることだと思いますが。ただ中村家としては私は仕事で家にいる時間が非常に少なくて、子供たちはテレビに写っている父親とか、滅多に聞いてくれませんが、最近出しているCDとかをたまに聞いたりとかもあります。私がそういう中でちょっと努めているのは昔話をしない。中村雅俊の二十代の時のアイドル時代。お父さんは昔こうだったとか、何というか昔話、形を変えると自慢話みたいなのは子供たちにしないようにしています。それは、それを言ってしまうと子供たちにとって負けかなと思うので。ついつい年齢を増すとつい自慢話というのは何気なく出してしまったり、それは決して悪いことではないと自分では思っているのですが。
 私は子供たちに対しては、今オヤジはどうなんだという姿を見せてあげたい。それが一番の子供たちにとって一番身近にいる大人じゃないですか、社会人じゃないですか。オヤジ頑張っているなという、今頑張っている姿を子供たちに見せたいというのが、私の努めていることなんです。今、何となく仕事も来て、オヤジ頑張っているなという姿を見せていられますが、この先いろいろと、年も取ると芸能界というのは需要と供給のバランスみたいなところもありますから、需要がなければ供給できない。つまり使いたくないと言われれば仕事がないということで、それでもこれだけは言えるのですが、役者とかこの世界は、役の大きいとか小さいとかはありますが、関係ないです。例えば、たまたま主役とかそれに近い役をやらせてもらっていますが、ドラマとか映画とかは、出演者、役者の全ての人がいないと成立しないし、スタッフの人も全ての人がやらないと成立しません。いい作品にしようと思って、そういう気持ちでやらないといい作品はできません。だから役が大きいとか小さいとか、だから私はということはないのです。
 特に私はいろいろと共演者の人を見ているのですが、本当に役が大きいとかメインだろうがメインじゃなかろうが関係なく素敵な人が多いです。本当に自分の生き方を持って、ちょっとしか出ないような役の人でも、控室とかで一緒にいるじゃないですか、お話をさせていただきますと本当に素晴らしい人が多いんです。役者としてどうこうじゃなくてやっぱりいい仕事をしているか、それはちょっと矛盾するように思うかも知れませんが、ちゃんと役者がメインだろうがメインでなくともちゃんといい仕事をしている、あの人頑張っているなというのは同業者はわかりますので、家族にもわかります。できれば昔話をせずに、今いい仕事をしている父親というのをずっと見せてあげたいなと思います。
 家では結構だらしのない父親です。ステテコははきませんが、(今日のような)こんな恰好ではいません。ビジュアル的には本当にだらしない父親でいるんですけど、でもそんな事は関係ないことで、気にする子供たちもいるかも知れませんが、年をとっていけば、オヤジって、お母さんってどういう人だったかなあと、とてもはっきりとわかると思います。だからこそちゃんとオヤジの背中とか、やっている姿とかを見せておくべきです。お説教することもたまにありますが普段はお説教することなく、ちゃんとやっているオヤジの姿を子供の目に刻むという作業はずうっとして行きたいなと思っています。
 講演なので偉そうなことを言っていますが、それほど大した人間でもないので、自分がちょっと気を付けていることだけを言います。さっきデビューの話をしましたが、とてもとてもおいしい話が最初からあったので、つまりドラマで主役をやって歌を出して一位になるなんて、これ以上のものはなかったんで、きっとデビューしたのはいいけれどこれからはどんどん下降の人生だなとか、一発屋かなと、そういう気持ちがあったので、あの時から自分の中では仕事の仕方を変えました。ここのところが中村君の偉いところでして、つまり一本、一本ちゃんとやろうと、ドラマもかけ持ちをしないで、一本、今やらなければならない仕事、ドラマならこのドラマに専念して、コンサートはコンサートでちゃんとやる。だから割と傍目では地味だったのですが、とにかく自分の役者としての生き方は一本、一本、いっぱいでるのではなくて一本に専念する。そのかわり月並みな言葉ですが一生懸命やろうと思いました。
 一生懸命というのはとても大事なことのような気がします。仕事もそうなんですが、私はゴルフとかその前はウィンドーサーフィンとか、いろいろやっていたんですが、つくづく思うことは遊びも仕事も、特に遊びは本気でやることが大事です。本気でやった方が喜びは倍までは行きませんが、本気でやった時の方がその先に見えてくるものがある。だから割と遊び事は結構、いいじゃない楽しければというのもあるのですが、それはそれでまたいいんですが、本気の先にある何かというのが私は大好きです。何でもない事でも一生懸命本気でやると見えてくるものがあって、ずいぶん今までの生活の中とか、仕事の中で本気にやったんでこういう事があったんだなというのが多々あります。
 元々好奇心が旺盛でして、これは自分の中では良かったなと思うことなんですが、何か人だかりがあったりサイレンの音がなったり、何かあったりすると必ず表へ出ていく。そして首を突っ込む。これは人生では大事だなとつくづく思います。家にいたら人にも会いません。事件とかも目の当たりに見ることもないです。一つの例えなんですが、自分の人生の中で興味を持ったことあるじゃないですか。まあ、いいやと思えばそれで終わりですが、首を突っ込む、これめちゃくちゃ大事です。とにかく興味を持ったものは一回は自分の感じ、舌で味わってみましょう、皆さん。そこから自分の人生を変えるような出来事と出会いがあったりする。そういうことって本当にあるのです。食べ物もそうです。食わず嫌いという人もいますが、食べないで「だめ、だめ、だめーっ」なんて言っている人もいますが、自分の舌で味わうというのはとても大事だと思います。ちょっと興味を抱いたことはとにかく自分の舌で試してみる。自分の感覚で試してみる。自分の人生に潤いがあったり、自分の人生を大きく変える出来事になったりすることは本当にあるような気がします。とにかく自分の舌で感覚で試してみる。
 私はちょっと嘘を言ってしまいました。現役で大学へ入ったような言い方をしましたが、一浪しました。これを言っておかないと。東京で駿河台予備校に入りまして、もっと詳しく言うと、外交官になろうと思い東京外国語大学のロシア語科を受けましたが落ちました。それで慶応に入ったんです。今何を言おうか忘れてしまいましたが。
 現役で受かった大学もあったんですが、あえて浪人を選んだんですが、その時おふくろが「浪人しちゃだめ、せっかく受かった大学があったんだから」と言われました。無駄のない人生ってつまらないじゃないですか。人生の中で寄り道したとか、迂回したとか、立ち止まったとか、例えば人生の若い時期に失敗したとか。もともと私は人生の中で失敗はないと思っていますから、失敗が七つあっても九つあっても最後に成功すれば勝ちだなと思っているのです。後で振り返った時にあれは失敗だったという話になってしまいますが、今失敗しようが最後に笑えばいいじゃないのと思っています。
 先ほどの話に戻りますが、人生の中で失敗とか、回り道とか、無駄とかというのは意外に後でそれがあるから人生に潤いがあるようなところがあって、いつもいつも人生という新幹線だけがいいというわけではなく、各駅停車というのもよいのではないかと考えています。あの駅でちょっと降りてみようか、電車の中でどこかのおばあちゃんと長話して目的地を通りすぎたとか、そういうのがあってもいいじゃないかと思ったりもします。人生というのはいろんな失敗とかがあっても潤いとして後でいい感じで人生を潤わしてくれるのではないかと思っています。
 たぶん皆さんは、私の人生を見てて恵まれているなと思っている人もこの中には一・三パーセントいると思います。デビューして三十周年ということで最近、取材でインタビューを受けるのですが、「中村さんは浮き沈みないですよね」とよく言われるのですが、人には言っていないだけで、危機感とかヤバイなという時期もありました。私はトータル的にはラッキーだったと思います。ラッキーというの、棚ぼたのようなラッキーというのは人生にはないような気がします。棚からぼた餅が落ちてきて、それをとりそこねるということもあるような気がします。つまりラッキーという言葉は自分の人生を振り返って努力という言葉とか、努力という作業がベースにあってラッキーなのではと思うんです。結構ラッキーということが本当にあるのですが、さっきの棚ぼたもやっぱり自分でフットワークを良くしていないと、落ちてきた時にパッと動いて口でくわえるのか手で取るのかよくわかりませんが、普段のフットワークの良さがないと取れないような気がします。ラッキーというのは努力をベースにしていう言葉じゃないかなと思ってます。
 私はまだ五十二年しか、あえて「しか」と言いますが、役者として歌手としてまだまだやることが多くて、自分の人生はラッキーという言葉を使えば努力してラッキーで三十年間生きて来たのですが、これからは自分のやりたいことをやろうかと思っています。少し前までは人生を振り返ると四百メートルのトラックを一周した後の二周目のスタートラインにいるような気持ちでいたこともあるのです。一周目の時は一緒に歩いている人や走っている人がいて、こいつには負けたくないと一生懸命走ってオーバーペースになったり、余裕もないので周りの景色を見ることもなくがむしゃらに生きて来たんですが、今度は二周目なのでライバルを意識することなく自分のペースで、周りの景色を見ながら歩いて生きて行こうと四十代の時に言っていたんですが、五十代になったらちょっと変わりました。すごくやる気が起きてあれもやらなきゃ、これもやらなきゃと、ちょっと負けられないぞと。ジャニーズの連中にも負けたくないし、まあそれ以前に負けているかもしれませんが、気持ちは負けていられないぞと。そういう意味で五十代になって、今までやったことのないドラマをあえてやるようにしました。「夜逃げ屋本舗」とか「断食ご一行様」とか、ダイエットの話をしたり。二時間もので言えば、松本清張原作の「内海の輪」というドラマをやらさせてもらいました。今まで滅多になかったラブシーンを、もっと具体的に言うとベッドシーンをやらさせていただきました。恥ずかしいものです。五十歳を過ぎて裸になって。相手は十朱幸代さんだったんですが、十朱さんは還暦なんですよ。冗談で、「十朱さんは本当にお若いですね。名前の通り十は若い」なんて言って笑わせたりして、「あなたも、もうオジサンね」なんて言われたりして、オヤジギャグ炸裂なんですが、十朱さんとのベッドシーンは非常に恥ずかしくて。十朱さんは慣れてまして、二時間ドラマでベッドシーンが五回ぐらいあったのです。監督は監督で「中村さん、いつも通りやって下さい」と。いつも通り、普段通りって言われても、ちょっと困るんですが。十朱さんはベテランですから、三回目くらいのベッドシーンがあると「次は私が上になりましょうか」みたいな感じで、本当に慣れた方で、何が慣れているかわかりませんが。
 そんなわけで、この間は松本清張原作の「タツサツシイ」というドラマをやらせていただきました。今まで自分がやって来なかった世界で役とかを考えています。
 私は大学の時に英会話をやっていたのでちょっとだけ喋れるものですから、これから先、近い将来にアメリカの日本に配給されるメジャーの映画じゃなくて、向こうでインディーズというかB級の映画、日本で公開されない映画もあるので、そういう映画にも出て見たいし、また向こうで小さな舞台とかもやって見たいとか、いろいろと夢があります。これから言う夢は絶対百パーセント叶わない夢なんですが、もし自分の作った曲が売れることがあったら死んでもいいです。今までいろんな青春もの「俺達の旅」などをやって来ました。これからは世の中の人が認めるようないい作品、「あれはいいね」と言われるような作品をできたら作りたいし、叶うんだったら本当にこのうえない幸せです。
 中村はいつも背中のランドセルに宿題を一杯入れて歩んで行きたいと思っています。さっき言ったみたいにやらないでいいと言えばそれで済むんですが、好奇心旺盛に何にでも首を突っ込んで、やるからには本気でやっていこうと。こういうことは当たり前なのですが、意外と小学生や中学生の時に先生から言われたことなのですが、意外と世の中の人はやっていないなというのが実感なので、本気で、一生懸命、好奇心旺盛、月並みな言葉だけど、その辺に転がっていることから始めて行った方が人生って後で振り返った時に充実した潤いのある人生があるのではないかと思ってます。
 私はこの宮城で、女川という小さな港町で育ちまして役者をやっていますが、家の環境は、おふくろが「バーヤエ」という飲み屋のママをやってまして、親父がカツオ船。ドラマチックな感じでした。隣にはホステスさんの部屋がありまして、多感な時期に恵まれていたのか、恵まれていなかったのかよくわかりません。小さな港町、昔「俺達の旅」で一緒にやっていた秋野太作さんが女川に来てくれたことがありました。女川の町を見て一緒に食事をした時に、「お前、とんでもない所から出てきたんだな」と。確かに、今役者でテレビに出ていると都会人みたいな感じに見えますが、田舎で生まれて田舎で育ちました。あそこに生まれたので不思議なエネルギーをもらって人とまた違った形の自分の「らしさ」を作ってやって来れたと思ったりもします。他人を真似することなく何か一つの技術を会得する時は真似から始まるのでしょうが、最終的には自分の「らしさ」というか、自分自身が最終的に出せたらいいのじゃないかと思います。
 直木賞作家の伊集院静さんと以前仲良くさせていただきまして、伊集院さんが私のコンサートツアーの演出をしていた時期がありました。その時はまだ三十歳過ぎの時だったのですが、インタビューで「中村雅俊が五十歳になってまだ中村はいいよねと言われたら、中村の人生の半分以上成功だね」と答えているんですが、もう五十二歳です。五十歳を過ぎてしまうと、こんなにもまだ大人じゃないのかなと実感しています。 皆さんの目指すものに中村はなれませんが、できれば刺激物というか、「中村があんなことをやっている」とか、「最近の中村の仕事はだめね」とか言われるのじゃなく、「いいよね、いい仕事をしているね」と、皆さんに言わせたいです。皆さんもそう言われるとがんばるじゃないですか。そういう意味での刺激物です。刺激になれたらいいなと思います。
 中村はもうすぐ五十三歳になりますが、本当に頑張って生きて行こうと思います。皆さんの刺激になるためにいい仕事もしたいと思います。できれば皆さんも中村に影響を受けて頑張って欲しいと、私は理想としてそう思っております。
 どうもありがとうございました。

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